2012年10月29日月曜日

びわ子さんへの書簡(10/28の往復書簡哲学カフェのまとめ)

10/28(日)の哲学カフェ「びわ子とコガネイ氏の往復書簡」において、「幸福を感じるとき」をテーマに話し合った内容をまとめました。今回の話し合いで出てきた4つの疑問・論点を、びわ子さん(びわこ哲学カフェ)に尋ねたいと思います。

■コガネイからびわ子さんへ意見を聞きたい「幸福」に関する疑問・論点
・幸福は、幸福を感じる主体(本人)の主観のみに基づくと言い切れるか? 
 他人の目・判断の影響はあるのか?
・幸福を感じる主体が感じる/体験する快と不快を総合的に勘案して、快が不快を上回った
 状態が「幸福を感じるとき」といえるか。
・快/不快と異なる要因が幸福感をもたらすことは考えられないだろうか。
 あるとすれば、それは何か。
・幸福又は幸運の時間軸の関係。幸福は長いスパンで観た感覚、幸運は瞬間瞬間の体験?

以下、参考情報として、10/28の対話のなかで出てきた事例とその概要を示します。

(1)死の間際で、手厚い看護を実感した患者が「私は幸福だ」と言った場合。
 身体的には不快だが、死に際し医師や家族のサポートで精神的に満たされたため
 (≒快を感じたため)それらを総合して、幸福だと表現したケース。

(2)本人は幸福だと感じているが、周りから本人に不幸を感じさせる可能性のある情報を
 伝えた/伝えなかった場合。
  例1:子供の頃の生活が良いと思っていたけど、後年になって当時の友人から「あの時、
     実はこっそりいじめてた」と告白された場合。
  例2:終末期の患者に、表面的には看護はしつつ、敢えて見込みのある治療法を伝え
     なかった場合(看病の負担から早く抜けたいため)。
  例2’:患者が精神的に非常に弱いため、「手遅れだ」と敢えて伝えない方が患者の精神
     負担の観点で良いと判断した場合。

(3)幸福を感じるときは、現状の平常状態からポジティブ(または快)の方向へ大きく上昇
 したとき?
  例1:昇進した、事業に成功した等。客観的にみても、当人の状況がポジティブな方向へ
    上昇したとき。
  例2:途上国の悲惨な生活状況を描いた映画を観て、自分がいかに恵まれた生活を
    しているか実感したとき。
    なお、客観的にみて本人の状況(経済状況、人間関係等)に変化はない。

(4)幸福感は、自分が幸福だと感じれば、他人/国が干渉すべきものではない?
  例1:ドラッグで多幸感を得ていても、個人的に良いと考えるならそれはそれでよい。
    (その後に生じるかもしれない問題(刑罰等)は、別の話。自己責任。) 
  例2:振り込め詐欺に会った老人に聞くと「親身に話を聞いてくれたので犯人を厳しく
    責める気はない」(≒幸福だった?)

(5)幸福度は数値化できるか。国民総幸福量を国政の政策の指標にする動きがあるが、
 このようなことは可能and/or意味があるのか。そもそも個人個人で幸福度の差異が
 あったり、それらの合計や平均を取ることは可能なのか。

(6)過去の経験+現在の体感+(予測しうる範囲での)未来の予測を総合して、幸福か否か
 判断すれば済む話か。
 他人から、過去または現在の潜在的なネガティブ面を殊更強調されれば、それに影響
 される可能性がある(霊感商法etc.)。
 すると、過去+現在の経験・体感は他人に操作されると言えるので、自己の過去+現在+
 未来による総合判断は、必ずしも正確・適切だとは言い切れないのではないか。

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