11/25に行われた、哲学カフェ「幸福は人生で一番価値があるものだろうか?」のまとめです。
びわこ哲学カフェとの共催で、びわこ哲学カフェからの質問について話し合いました。書簡形式でのまとめています。
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『びわ子とコガネイ氏の往復書簡』
びわ子さんへ、
あなたからのお手紙、拝見しました。
わたしからの疑問について、丁寧に回答していただきありがとうございました。
そして、あなたからの質問である「幸福は、人生で一番価値があるものだろうか?」について、私なりに考えてみました。
質問に対して取り得る答えは、「はい」、「いいえ」、「どちらでもない」の3つだと考えました。
もし、「いいえ」と答えるのなら、なぜ「いいえ」となるのか考えてみました。
すなわち、幸福よりも価値があるものが存在するかどうかです。
「幸福よりも価値がある」と考えられるものがいくつか思い浮かんだのですが、よく考えるとそれらはおおむね「幸福感を与えるもの」と言い換えても差し支えないものばかりでした。
もう少し丁寧に言うと、幸福を上位概念とすると、価値が高いと思われたものは幸福の下位概念と言えそうです。
結局、思いつく限りにおいては、答えが「いいえ」となる理由は見つかりませんでした。
次に、「どちらでもない」という答えはあるのか考えてみました。
質問を少し変形して「Xが一番価値がある」という命題にしたとき、これが幸福の価値と無関係に常に正しくなる「X」は存在するかということについて考えてみました。
思い浮かんだ命題のひとつは「生きていることが一番価値がある」というものでした。この命題が常に正しければ、幸福が一番の価値か否かはほとんど無意味のように思えます。
確かに、嬉しいことや楽しいことだけでなく、悲しいことや嫌なこともひっくるめて、この世に生を受け生きていること、それ自体は大変素晴らしいことだと思います。
一方、「生きていることが一番価値がある」という命題が常に正しいことへの反証があることに気づきました。
たとえば、不遇な境遇のために不満を感じながら生きている人は、経験・獲得できたかはともかく、単に生きていることよりも価値が高い別のものがあると考えているだろうと推測することに、特に不都合はないと思います。
ポジティブなものでは経済的に不自由のない暮らし、ネガティブなものでは自殺、すなわち生きているより死んだほうがマシ、のようなものが想定できます。
もちろん、不遇な境遇をバネに、言い換えればそこに生きる価値を見出している人もいると思います。
しかし、「生きていることが一番価値がある」とは必ずしもいえないことは、上記のような反証(厳密なものではありませんが)を1つ挙げることができれば十分だと考えます。
他の「X」を考え付いたり、または別のアプローチで「どちらでもない」と答えるべきだとする論理付けは、私が考えた限りでは思いつきませんでした。
結局、びわ子さんの質問の「幸福は、人生で一番価値があるものだろうか?」に対して、取り得る答えが「はい」「いいえ」「どちらでもない」の3つしか取り得ないということを前提にした場合、「はい」とすると不都合になるようなことも思いつかなかったことから、質問に対する答えは「はい」となりました。
ここで、改めて、何が幸福を感じさせるのかについて考えてみました。
一般的に、幸福感を与える要因として、経済的な豊かさ、健康であること、良好な人間関係、平穏な生活が送れていることなどが挙げられると思います。
経済的な豊かさについて、大抵の人は裕福になれば幸福感は増すだろうと思われます。
しかし、貧しくなった場合、必ず幸福感が減ずるかというと、そうとも言い切れないようにも思いました。
たとえば、貧しくなったけど、金持ちの頃には感じられなかった周囲の支援から得られる人間的な温かみを感じられるようになり、その結果、逆に幸福感が増すこともありえるかも知れません。
この例で想定しているのは、「幸福は、いくつかの要因に因数分解でき、それぞれの要因は増したり減ったりし、それらの要因を総合して得られた結果が増えていれば幸福感が増す、逆に減っていれば幸福感が減る」ようなイメージです。
しかし、このようなイメージも妥当ではないようにも思えてきました。
改めて経済的状況を軸に、ある例を考えてみます。
知人と良好な交友関係がある健康面でも問題のない資産家が、ある日投資に失敗して資産が平均的世帯と同じくらいに減ってしまいました。
しかし、資産が減った後も、特に悲観することもなく周りの人と以前と変わらない交流をし、身体的・精神的健康にも変わりはありませんでした。
その元・資産家は、資産が減ったことで、相続争いや犯罪に巻き込まれるような心配が減ったことで、以前よりも幸福になったと感じるようになりました。
この例は、「幸福要因の総合結果説」では説明できません。
少し都合よく話を組み立てたかも知れませんが、私が言いたいのは、幸福の価値を考える場合、幸福を構成する要因や、それらの増減などの想定は、どうやら必要なさそうだということです。
なぜ、質問に対して取り得る各回答の詳細検討や幸福を感じさせるものの検討のようなまわりくどい検討をしたかというと、びわ子さんからの質問「幸福は、人生で一番価値があるものだろうか?」に対して「はい」と答えることになったことに、違和感を感じたからです。
びわ子さんは、質問を言い換えて「私たちは、幸せでなければらないのだろうか?」と問い直しています。
この問い直しの背景として、「世の中には、幸せこそが最高の価値である、幸せでなければならない」ような風潮があるらしい、そのような強迫観念は幸福を妨げることになるかも知れないことを示唆していました。
私も、おおむねびわ子さんの示唆に対して同感です。
幸せこそが最高の価値であるいう考えに息苦しさを感じるのであれば、その状態は幸福な状態とはいえないと思います。
すなわち、幸せこそが最高の価値でなくてもよいという考え方のほうが、その人にとってより価値があるといえます。
これは、とりもなおさず「幸福は、人生で一番価値があるものか?」という質問の回答が「いいえ」となることになるでしょう。
「人生で」とは「常に」と言い換えることができ、そして、上記のとおり、幸福よりも高い価値の状態が一瞬でも存在する場合があるからです。
以上、さまざまに考えを巡らせましたが、私の幸福の価値の捉え方は「その人が幸福を感じる状態が、その人にとって好ましい状態だ」というものです。
これは、びわ子さんから示された「判断説」に近い考え方だと思います。
そして、先ほどは、びわ子さんの質問の答えは「はい」となると述べましたが、「はい」とすると不都合となる場合も考えられたため、前言撤回します。
最終的には、4つめの回答「はい、いいえのどちらもありえる」という回答が、今のところ最も妥当な回答ということになりました。
最後に、これまでおおむね「判断説」を肯定する考えを述べてきましたが、無条件に「判断説」を支持できるわけではない事例も考えられたことを記して筆を置きたいと思います。
・三歳児が「自分は幸せ」と感じるのなら、その三歳児は「幸せ」だといえるのか。三歳児が経験したこと・獲得した知識はかなり限られており、「判断説」のみで本人の幸福感を捉えるのは妥当ではないのでないか。
・非常に困窮している人に生活保護を勧めても、「自活することに生きる価値を見出している。この状態で十分幸せだ」として、保護を固辞する場合。生活保護を受け衣食住を整えて生活再建するのが誰の目からみても好ましいと考えられるのに、本人の幸福だというならそれもアリか、として結局自主性に任せてしまう場合。
・暗殺者養成機関で「敵は抹殺することが善」だとして育成された暗殺者。暗殺は報国となると信じており、そこに幸福感を感じる暗殺者。道徳抜きで「判断説」のみに基づいて幸福の価値を捉えるのは妥当といえるのか。
コガネイ
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